5月27日は日ロ戦争の日本海海戦の日
5月27日は日本海海戦の日
5月27日は何があったのかと調べていたら、日ロ戦争の山場の一つに巡り会いました。
日ロ戦争は1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日に戦われ、その一つの大きな山場が1905年(明治38年)5月27日の、ロシアのバルチック艦隊と日本海軍の連合艦隊による日本海海戦でした。
ロシアのバルチック艦隊は、その名が示すとおり、ヨーロッパが本拠地でした。
日ロ戦争の勃発により、バルチック艦隊を日本海に派遣することとなり、1904年10月に体制を整え、艦隊は黒海を出発しました。
当時、スエズ運河は日本の同盟国のイギリスの封鎖によって通過できず、アフリカの南端の喜望峰の南を回るという大回りをせざるを得ず、何か月もかけて日本海まで移動してきたのです。
ついに、1905年(明治38年)5月27日、ロシアのバルチック艦隊は対馬の沖合の日本海に到達しました。
そこで待ち受けていたのは、旧日本帝国海軍の連合艦隊です。
その時の状況は、有名な電文「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」で簡明に記録されています。
この文章の起草者は後に海軍中将となる秋山真之でした。
この日、対馬の沖合いで交戦により日本艦隊はロシア艦隊を完全に破ったのです。
ここまでが旧日本帝国海軍の奢りなき前進だったのでしょう。
日清戦争の勝利とこの日本海海戦での大勝利により、日本軍は成功体験だけが記録され、この後の太平洋戦争へ向けての突入に繋がったことは明らかです。
坂の上の雲
この戦の詳細は司馬遼太郎の「坂の上の雲」(文春文庫全8巻)をご参照ください。
引用元: Amazon
戦艦三笠
なお、当時の旗艦の三笠は今でも横須賀で見学できます。
引用元: 三笠保存会
将来への教訓
過去の成功体験だけを頼りに道しるべを求めることの危険を、改めて思い起こす日となりました。
かつて「坂の上の雲」を全巻読んで考えたことや、戦艦「三笠」を見学したことを思い出し、日記にまとめました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
大井町駅近辺を散歩
自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介を続けます。
今回は大井町駅付近を散歩して見つけたお寺と神社です。
東光寺
大井町駅から西へ延びる立会道路と三間道路との間に位置する東光寺には、七福神のうちの毘沙門天が祀られています。
入口は少々わかりにくいですが、住宅街の奥まった所に山門があります。
本堂も静かな佇まいです。
ここは天台宗のお寺で1534年に創建され、500年近くの歴史があります。そして現在の本堂は1813年に建てられており、300年の歴史があるのです。
当寺は比叡山延暦寺の末寺にて久遠山不動院東光寺と称し開山は天文13年(1534)什仙上人により創建された寺である。古くは大井から荏原へ通じる道筋にあり近くに立会川が流れ、のどかな風情が漂っていた。現在の本堂は文化10年(1813)に浄権大僧都の再建せるものである。
引用元: 天台宗東京教区 公式サイト > 寺院紹介 > 久遠山不動院 東光寺
毘沙門天
本堂の前には毘沙門天が祀られていました。
毘沙門天と聞くと戦国武将の上杉謙信が信仰した戦の神様のイメージを私は持っていましたが、今回このお寺を訪ねるにあたり改めて調べたら、もともとは開運厄除けと財宝をもたらす神様を表すものだということを知ることができました。
旧町名
山門のすぐ脇の看板に住所の由来が明記されていました。
それによると、昭和7年(1932年)に東京市になる前は、この付近は下蛇窪(しもへびくぼ)と呼ばれていたことが分かります。
現在の住所「東京都品川区二葉1丁目14−16」でのグーグル地図は次のとおりです。
上神明天祖神社
東光寺の北側を通る「三間通り」を西へ進みます。
横須賀線の西大井駅を越すと、三間通りの右側に神社が見えてきます。
神社の前の街灯は白蛇が物をくわえているように見えます。
そして鳥居に掲げられた額は「蛇窪神社」です。
この神社は通称が「蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)」で正式名称は「天祖神社(てんそじんじゃ)」です。鎌倉時代の西暦1323年頃に創建され約800年の歴史を誇る神社です。この付近はかつて蛇窪と呼ばれていたことが神社の通称に残っているのです。
鳥居の横の石柱には正式名称の天祖神社が彫られています。
手水所のコロナ対策
本殿の前の手水所はコロナウイルス対策で水が抜かれ、替わりにアルコール消毒液が用意されていました。これも御時世です。
弁財天
この神社には、七福神の一つである弁財天が祀られていることを示す看板も入口近くにあります。弁財天とは「愛情と智慧を授け、富貴開運をもたらす神」であることも示されています。
弁財天の祠と白蛇の像は、本殿の右奥です。
しかし、残念ながら工事中で非公開でした。
年内には工事は完成する予定とのことです。
地図は以下のとおりです。
おわりに
外出自粛要請の折、公共交通の使用は慎みますが、健康維持のための自宅付近で人混みを避けた散歩は続ける予定です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
平和の森公園(南側部分)とその周辺
自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介を続けます。
今回は大田区立の「平和の森公園」の南側部分とその周辺を紹介します。
平和の森公園(南側部分)
公園は、前回ご紹介したとおり、真中を環状7号線が通っていて、南北に大きく分けられています。
今回は南側(案内板の左側)部分を紹介します。
北側部分の南のはずれに次の看板があります。
看板の上半分は、公園の南側にはフィールドアスレチックコースがあることを示しているので、公園の看板としては特に注目するものではありません。
しかし、下半分は自転車置き場ではなく、違法駐輪で運ばれてきた自転車の保管所が、環状7号線の陸橋の下にあることを示しています。
つまり、公園に憩い来た人向けの案内ではなく、違法駐輪の自転車を引き取りに来た人への案内なのです。
自転車保管所
自転車保管所の入口には、自転車が違法駐輪されていた場所が明記されています。
陸橋下にはかなりの自転車が保管されていました。
フィールドアスレチックコース
料金表は次のとおりですが、今は当然のことながらコロナウィルス対策で休業中です。
緑に囲まれた中に遊具が配置されています。
当然、誰も中にはいません。
弓道場・アーチェリー場
弓道場も休館です。
テニスコート
砂入り人工芝のテニスコートが4面あり、大田区の区民大会などが開催される季節ですが、今は使用できません。
壁打ち練習場も閉鎖です。
大森 海苔のふるさと館
平和の森公園が終わり、次に現れるのは「大森 海苔のふるさと館」です。
正面玄関に回ると、鯉のぼりは出ていましたが、入口は閉鎖されています。
塀の外に、海苔を干すのに使う木と竹でできた枠が設置されています。
大森駅前の海苔の記念碑
場所は少し離れますが、JR大森駅の東口広場には
「海苔養殖業発祥の地記念碑」があります。
その裏側に説明が記載されています。
また、日本経済新聞の中村博氏による
「海苔のふるさと 東京・大森 1960年代に漁業権返上で涙 元漁師の元銀行員が語り継ぐ」
が掲載され、大森付近での海苔養殖の歴史などが解説されています。
大森ふるさとの浜辺公園
さて、場所を公園に戻し、更に南側に進むと浜辺公園に入ります。
入口
ここから「大森ふるさとの浜辺公園」です。
この先に砂浜などがあることの写真入りの案内図も立っています。
砂浜
砂浜は十分な広さがあります。
広い砂浜に人出は疎らです。
ビーチバレーコート
観客席を備えたビーチバレーコートと奥の練習用コートもありましたが、当然のこととして使用中止でした。
おわりに
外出自粛要請の折、公共交通の使用は慎みますが、健康維持のための自宅付近で人混みを避けた散歩は続ける予定です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
平和の森公園(北側部分)
自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介を続けます。
今回は大田区立の「平和の森公園」の北側部分を紹介します。
アクセス
京急線の平和島駅の近くに広がる大田区立の公園です。
自宅から歩いて行くときは、平和島口の交差点近くの入口から入ります。
歩道橋の先の右側が今回の目的地の「平和の森公園」で、沢山の樹木が植えられています。
入口に到着。
緑色が鮮やかです。
公園の構成
公園は真中を環状7号線が通っていて、南北に大きく分けられています。
今回は北側(案内板の右側)部分を紹介します。
「ヘビを目撃した例がある」という、少し驚ろかされるような看板が入口近くにありました。
都会の中でも、樹木を沢山植えている場所では今でもヘビが住んでいるのだなと感心させられました。
愛し子の像
公園の北の端に「平和都市宣言」の塔が建っています。
塔の頂上は子供を抱く母親のブロンズ像です。
塔の裏側にはこの塔の名前が、
平和の像「愛し子」であることや、
昭和59年(1984年)に建立されたことが刻まれていました。
塔の横には、平和を祈る言葉が刻まれています。
噴水
塔の前には噴水がありますが、水が抜かれていました。
噴水の向こう側は大きな広場です。
広場の端まで行くと塔は小さく見えます。
また、外出自粛の折、人出はほとんどありません。
みどりの縁側
広場の横には休憩所「みどりの縁側」があり、通常の時期には、花とみどりに親しむためのイベントなどが開催されます。
しかし、現在は閉館中です。
ウィルス対策でやむなしです。
流れる滝
「流れる滝」(カスケード)には通常は水が流れていますが、今は噴水と同様に水が抜かれています。
通常の時期は水の流れを楽しめますが、ウィルス対策のために人が集まるようなことを避けるため、水を止めているのでしょう。
ひようたん池
流れる滝の奥には、瓢箪(ひょうたん)のような形をした細長い池があります。
ここには水が、いつもの通りありました。
池の噴水も健在です。
この池では釣りをすることが認められ、釣りデッキも用意されています。
ただし、注意書きの7番には
「釣った魚は、必ず池に返しましょう。」
と書かれていて、獲物の持ち帰りは禁止されています。
釣りデッキに人の姿はまばらです。
自然観察園
ひょうたん池の奥の部分に、水の上まで遊歩道が巡らされている部分があります。
この部分は、水生植物や昆虫を観察して楽しめる自然観察園なのです。
池の上に巡らされた遊歩道の上からは、水生植物が間近に楽しむことができるようになっています。
おわりに
外出自粛要請の折、公共交通の使用は慎みますが、健康維持のための自宅付近で人混みを避けた散歩は続ける予定です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
大森駅周辺
自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介を続けます。
今回はJR大森駅の周辺を紹介します。
天祖神社
大森駅の西口を出ると正面に天祖神社へ登る石段が目の前にあります。
石段
石段はかなりで急で真直ぐに伸びています。
石段の始まりの右側には石碑があります。
稲荷神社
石段の中腹から左の脇道を行くと、稲荷神社があります。
近づくと狐の表情もはっきりと見ることができます。
本殿
石段の続きを登ります。かなり急な勾配です。
登り切ると奥に本殿が見えて来ます。
人気はなく、落ち着いてお参りすることができました。
御神木
境内には樹齢約400年の椎の木が御神木として聳えています。
毎年秋には多くの実を付けるそうです。
八景坂と馬込文士村散策のみち
天祖神社の石段を登らず左側に進むと、そこが八景坂です。
八景坂の由来
八景坂は大田区文化財に指定されており、別名「やけんざか」と呼ばれていたことなどが立札に以下のとおり解説されていました。
「今でこそゆるやかな坂道であるが、昔は相当な急坂で、あたかも菓草などを刻む薬研(やけん)の溝のようだったところから、別名薬研坂と呼ばれた。
この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨、鲛州晴嵐、大物暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という八景が選ばれ、八景坂というようになったといわれる。」
馬込文士村散策のみち
八景坂の右側は先ほどご案内した天祖神社の石垣になっています。
そこには大正から昭和にかけてこの付近に住んで文筆活動をした文士に関するレリーフがいくつも飾られています。
関東大震災のあった大正12年に尾崎士郎・宇野千代夫婦が馬込に住み、その後、多くの文士がこの付近が活動したことが記されています。
多くの文人の顔が飾られています。
大森丘の会
「大森丘の会」は芸術家を中心として集まり、山王周辺の芸術家や文士の社交場であったことが刻まれていました。
左より、日夏耿之介、川端龍子、小林古径
後ろの建物は、望翠楼ホテル
馬込放送局
尾崎士郎・宇野千代夫婦の家の中は賑わい、馬込放送局と呼ばれていました。
大正末期の新しい流行
大正末期に麻雀カフェーや断髪姿のモダンガールが登場したことなどを紹介しています。
麻雀カフェー
「文士村の女性たちが相次いで断髪。モダンガールは馬込村の人々を驚かせた。」と刻まれています。
左の肖像は上から、吉屋信子、川端秀子
昭和の初期のダンスパーティー
ダンスパーティーには萩原朔太郎夫婦や、室生犀星、宇野千代などが参加していました。
朔太郎・犀星の周辺
女性文士の活躍
大森相撲協会
文士による相撲協会も存在しました。
文士たちによる相撲大会
年表
「馬込文士村と山王馬込の移り変わり」の年表も見ることかできます。
大森テニスクラブ
西へ少し歩くと大森テニスクラブがあります。
天気の良い日でしたが、コロナウィルスによる緊急事態宣言対応でテニスクラブは休業しており、誰もプレーしていませんでした。
おわりに
外出自粛要請の折、公共交通の使用は慎みますが、健康維持のための自宅付近で人混みを避けた散歩は続ける予定です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
勝島運河の花海道
自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介を続けます。
京急線の立会川駅から徒歩10分程度で行けるスポットの紹介です。
品川花海道
立会川が注ぐ勝島運河の両岸の堤防は「しながわ花海道」として整備されいます。
その始まりにはこのような看板が立っています。
堤防には菜の花が沢山咲いています。
また、ユリカモメの群れも間近に見ることができて、自然と触れ合うことができる遊歩道になっているのです。
案内図には以下の説明がありました。
「しながわ花海道」は、高潮や津波から地域を守る防潮堤の役割を持つ一方、花や緑、水辺に親しめるスボットです。
地域の皆さんが行う花植えのボランティア活動により、春には菜の花、秋にはコスモスが一面に咲きます。
今は菜の花が咲き、八重桜もきれいです。
秋にはあたり一面のコスモスに飾られて、かなり違った景観になるものと思います。
立会川の水質浄化
立会川が流れ込む勝島運河では次の立札のとおり、種々の鳥や魚を観察することができます。
この自然環境を保つための努力の説明を、立会川を少しJR大井町駅の方向へ遡った場所で見つけました。
平成14年度からのJR導水や、平成20年度からの高濃度溶解水の供給が行われているのです。
JR導水では東京駅の地下で湧き出た水を、東海道線の横の水色の管を通して運び、そのきれいな水を大井町駅の少し南側で立会川に放流しているのです。
鮫洲橋
勝島運河は京浜運河に合流します。
合流地点のそばに架けられているのが鮫洲橋です。
鮫洲橋のすぐ先には、警視庁の鮫洲運転免許試験場があります。
試験場は、コロナウィルスに感染した職員の発生に伴い、4月1日から12日までは業務停止していました。
現在は完全再開ではないようですが、一部の窓口は開いているそうで、駐車場の入口には交通整理の警官が立っていました。
鮫洲の地名の由来
試験場の近くに、鮫洲入江広場という芝生の上で遊べる公園があります。
その公園の中の立札によると地名の由来は以下のとおりです。
「鮫洲」の地名の由来は、鎌倉時代、品川沖で漁師の網に大きな鮫がかかり、この鮫の腹を割いてみると、聖観音の木像が出現。この聖観音は鮫洲観音と呼ばれ「鮫洲」の地名になったといわれています。
また、海苔の養殖はこの地で始まったことも記載されていました。
更に、案内図の右下の部分では、明治から平成にかけて埋め立てがいかに進んできたのかを地図でも説明しています。
おわりに
外出自粛要請の折、公共交通の使用は慎みますが、健康維持のための自宅付近で人混みを避けた散歩は続ける予定です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
尾崎士郎記念館と蘇峰公園
自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介を続けます。
JR京浜東北線の大森駅から徒歩10分程度で行ける2つの公園の紹介です。
尾崎士郎記念館
概略
代表作である小説「人生劇場」で有名な尾崎士郎(1898~1964)がこの地に住んでいたことを記念する施設で、大田区のホームページにその概要と駅からの案内図も掲載されています。
平成20年5月にオープンした「尾崎士郎記念館」では、昭和29年に建てられた居宅のうち書庫、客間、書斎を再現し、そのエネルギッシュな執筆活動を伝えるために、特に、机周りの雑然とした雰囲気を活かした展示を行っています。豊富な蔵書や原稿用紙はもちろん、いくつもの徳利や調度品からは、酒と相撲を愛した作家の息づかいが聞こえてきそうです。
引用元: 大田区ホームページ:尾崎士郎記念館
記念館前の案内板にも年表を含めた概略が記載されています。
入口
記念館の看板は駅から来た人に分かりやすく表示されています。
建物を正面に見て入場です。
人生劇場
建物の手前の庭に人生劇場の石碑があります。
石碑の横に肖像写真と説明があります。
写真の下の説明は「『人生劇場』は士郎の代表作。最初の作品である青春篇は昭和8年(1933)に「都新聞」に連載され、同10年に挿絵を担当した中川一政の斡旋で出版された。川端康成がこれを絶賛するとー躍有名になり、様々なシリーズが刊行された。」
石碑のすぐ前の部屋では、人生劇場の挿絵原画(複製)をガラス戸越しに覗くことができます。
宇津井健の後援
裏側に回ると、俳優の宇津井健の結婚式で媒酌人を務めたときの写真が飾られていました。
説明文は「1954年、尾崎士郎原作「雷電」が公開、主役を宇津井健(1931年10月24日~2014年3月14日)が務めた。尾崎は宇津井の後援会会長になるなど濃密な交友が成された。写真は、宇津井健の媒酌人を務めたときのもの。」
徳富蘇峰との記念写真
また、この後紹介する蘇峰公園の持主だった徳富蘇峰(1863~1957)との記念写真もありました。
説明文は「徳富蘇峰(編集者·評論家)と共に、「蘇峰九十一」とあり、1953(昭和28)年ごろと推測、近所付き会いのなかった二人だが、作品等互いに読みあっていたと思われる。その一端がうかがえる一枚。」
蘇峰公園
概略
徳富蘇峰は蘆花の兄であり「国民新聞」を刊行し、「近世日本国民史」を著したこと等により知られています。
その住居跡が蘇峰公園であり、その中には山王草堂記念館が建てられています。
入口~石段
門をくぐると石段が続いています。
石段は続きます。
この部分の石段は、自然の石を使用した昔のままのものだと考えられます。
登り切ると山王草堂記念館が現れます。
記念館の手前で蘇峰の胸像が出迎えてくれます。
山王草堂記念館
玄関
玄関の額
側面
胸像の台座
この台座の上に胸像があったが、第二次世界大戦で供出したとのこと。
カタルパの小径
尾崎士郎記念館への近道となっている石段は現代的な構造で、カタルパの小径と名付けられています。
立札によると、カタルパの小径の開通記念で平成25年に植樹されていました。
外出自粛要請の折、乗物の使用は慎みますが、健康維持のための自宅付近で人混みを避けた散歩は続ける予定です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
文庫の森と戸越公園
今回も自宅からの徒歩圏内のスポットの紹介です。
東急大井町線の戸越公園駅から徒歩2分で行ける2つの公園に行きました。
文庫の森
この公園は2013年に開園した比較的新しい公園です。
由来
この辺り一帯は、後で紹介する戸越公園を含めて、かつて肥後熊本藩細川家の下屋敷でした。「文庫の森」の敷地はその内の、旧三井財閥が所有して三井文庫を運営した土地であり、戦後の財閥解体で国文学研究資料館となった後、現在は緑豊な公園として公開されています。
保存されている書庫
三井文庫時代の建物の内、第二書庫だけが公園の中に保存されています。
南側から見た写真です。
案内版によるとこの他に、かつては第一書庫と事務棟もあり、廊下でつながっていたことがわかります。
広場
広い芝生の広場で遊ぶことができます。
水辺の広場
池の周りは水辺の広場と名付けられています。
水鳥が餌を捕っているところを見ることができました。
戸越公園
由来
古くから公園として公開されており、その由来は以下のとおりです。
肥後国藩主細川家下屋敷の庭園跡を利用して造られた区立公園。昭和10年東京市立の公園として開園し、昭和25年に品川区に移管されました。
池を中心に渓谷や滝、築山などの配置の中を一周する回遊式庭園で、薬医門(正門)、冠木門(東門)等、大名庭園の雰囲気を醸し出しています。梅や桜、藤、銀杏など四季折々、美しい植栽が楽しめる公園です。
引用元: 戸越公園 | しながわ観光協会
入口
薬医門(正門)
正門は大名庭園らしい構えになっています。
入口横には石碑もあります。
冠木門(東門)
冠木門(東門)は簡素でした。
池
正門から続く緩やかな下り坂が伸びています。
池のほとりの建物が見えてきました。
ようやく到着。
池は静かです。
近寄ると亀が岩の上にいます。
築山
東門の横には築山があり、その上から池を眺めることもできます。
渓谷と滝
池の上流へ進むと川があります。
更に登ります。
橋の向こうには滝もあります。
橋の上から池の方向を見ると、上流の滝のような水しぶきはなく、穏やかな流れになっています。
このように、渓谷と滝も公園の中に作られており、水のせせらぎの音を静けさの中で楽しむことができます。
生垣
公園の中で竹による生垣の組み方に様々な方法があることを見つけました。
第一は四ツ目垣(よつめがき)という組み方です。
立札の説明は以下のとおりでした。
「透かし垣の代表的な竹垣です。本来は胴縁を四段渡し、"四つの目"ができることからこう呼ばれます。簡単な構成の垣だからこそ、胴縁の段数や目の大きさのバランスなどさまざまなものがあり、変化に富んだ竹垣です。鎌倉時代の絵巻物などにもう、その姿が描かれていて、古くから使われてきたものと考えられます。」
第二は金閣寺垣です。
「透かし垣のなかでも足元垣の代表ともいえる竹垣です。楼閣「金閣」で知られる京都の臨済宗鹿苑寺で最初に作られ、この名で呼ばれます。胴縁を渡さず、立子を並べ、太い半割の押縁を渡し、玉縁を掛け棕櫚縄で飾り結びをします。」
最後に名前の説明はありませんでしたが、竹を斜めに組んだ生垣も池のほとりの一部に使われていました。
コロナウィルス対策の外出自粛要請が、早く解除されることを祈るだけですが、運動不足にならないよう、人があまりいない場所での散歩をこれからも続けます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
池上本門寺
緊急事態宣言による外出自粛要請のため、電車・バス等を使わずに自宅から行けるスポットの紹介を続けます。
今回は池上本門寺です。
池上本門寺の由来
池上本門寺は日蓮宗の大本山で、縁起は以下のとおです。
池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
(後略)
境内の主要スポット
総門
東急池上線の池上駅から徒歩10分ほどで、本門寺の入口の総門が見えてきます。
総門の奥に96段からなる石段が見えます。
石段
ふもとから見上げるとかなり立派な石段だと実感できます。
立札の説明によると、1606年ころに戦国武将の加藤清正(1562〜1611)が寄進し、その後、元禄(1688〜1704)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を残しているとのことです。また、別称を「此経難持坂(しきょうなんじざか)」というそうです。
石段を登り切って振り返ると、かなり登ったなと実感できる眺めです。
仁王門
石段を登り切り奥へ進むと仁王門をくぐります。
門の中の二体の仁王さんはかなりの大きさで近くで見ると迫力満点です。
大堂
仁王門の奥に、間口約27メートル、奥行約29メートル、高さ約27メートルのお堂がそびえています。これは鉄筋コンクリート造で昭和39年に建立されたものです。
鐘楼
仁王門と大堂の間の左側には鐘楼があります。
鐘楼の横には昔の鐘が飾られています。
元々の鐘は正保4年(1647)、瑤林院(ようりんいん)(紀伊徳川頼宣の室・加藤清正の娘)によって寄進されたが、宝永7年(1710)の火災により旧鐘が損傷し、正徳4年(1714)、紀州粉川(粉河)の鋳物師木村将監藤原安成によって改鋳されたと伝えられ、旧鐘の銘文が再刻されています。その後、昭和20年(1945)4月の空襲で一部に亀裂と歪みを生じ、現在は鐘楼脇に保管されているものです。
五重塔
鐘楼と逆の方向に進むと江戸時代に建立され、現在は重要文化財に指定されている五重塔を間近に見ることができます。
力道山の墓
墓所の中には昭和のプロレスラー力道山の墓もあります。
右側のブロンズ像は空手チョップを出していたリング姿そのままです。
日蓮聖人ご臨終の間
大堂の奥の案内板に従って大坊本行寺へと進みます。
ここで日蓮聖人が臨終となったとのことです。
御会式桜
霊場の近くには、現在も旧暦10月頃には花を咲かせるという御会式桜がありました。
池上梅園
霊場の近くには池上梅園があります。
この梅園は昭和53(1978)年に東京都から大田区に移管され、紅梅を中心に植林・拡張がすすめられ、梅や庭園を楽しむ公園として整備されたものです。
梅の季節は終わっていますが、種々の花が咲いており静かな散歩が楽しめました。
以上、池上本門寺付近のスポットをご紹介しました。
緊急事態宣言が解除され、自由に動き回れる日が早く来ることを祈る毎日です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
品川神社
外出自粛ですが運動不足解消のため、自宅からの徒歩圏内での散歩は続けています。
今回は品川神社です。
品川神社
京急電鉄の新馬場駅の目の前に高い石段があり、その頂上に品川神社が祀られています。
大黒天
石段のふもとの左側には大黒天の像があり、右側に大きな石碑があります。
本殿
石段を上り詰めると鳥居の奥に大きな本殿が現れます。
やっと本殿に到着。
本殿の左には宝物殿がありますが、本日は開いていませんでした。
本殿の少し手前の右側の神楽殿も美しい造作でした。
包丁塚と七福神めぐり
少し石段の方向に戻りますと、品川区鮨商組合連合会が昭和51年に建立した包丁塚があります。
また包丁塚の近くには「東海七福神発祥の碑」もあります。
富士塚
石段の途中からは富士塚に登る登山道があります。
本物の富士山のように、ふもとの1合目から頂上の10合目までの道標が建てられており、5合目を過ぎると道は狭くてかなり急な坂道になります。
頂上には、まだ4月上旬ですが、既に鯉のぼりが泳いでいました。
この富士塚については立札で以下の説明があります。
「富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。
品川神社の富士塚は、明治2年(1869)、北品川宿の丸嘉講社の構中300人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治5年に再築し、大正11年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移菜された。
江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。」
浅間神社と「ぶじがえる」
富士塚のふもとには浅間神社もあります。
またすぐ近くには、富士に交通安全の願をかけた「ぶじがえる」の像もあります。
お稲荷さん
本殿の右奥にはお稲荷さんがあります。
本殿の横のお稲荷さんは「上社」で更に右下に進むと「下社」があり、その中に「一粒萬倍の御神水」が祀られています。
その説明は以下のとおりです。
万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。当稲荷社は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地の患みの霊」と「御神水」をお祀りする。家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。また、持ち帰りて家・店の入口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持つて幕らし・高売するが吉。そそぎし銭の一部は門前・北品川の前家にて使用するが吉。
板垣退助の墓
本殿の裏を回って進むと、明治維新で活躍した板垣退助の墓があります。
板垣退助の肖像画は、昭和の時代は百円札に使用されていたので、多くの人々に知られています。
また岐阜を遊説中に刺客に襲われた際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと伝えられ、その言葉が墓の横の石碑に刻まれています。
なお、この石碑の書は当時の佐藤栄作首相(現在の安倍晋三首相の祖父の岸信介元首相の弟、つまり、安倍晋三首相の大叔父さん)によるものです。
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